昭和52年01月06日 池田健吾十年祭



 おかげ頂きました。御霊様たちの日頃の精進と、遺族の者の一生懸命の思いとで、今日の御霊様のお祭りは奉仕された、また結果がこういうお祭りになったということに、強く感じさせてもらいました。私頂いたことは、楽人という合楽の楽と、人という字楽人ということを頂いた。これは楽人、ともまぁ読むわけです。典楽のおかげを頂いておる人達の事を、楽人と申しますが、けどもそれはこの楽にん。
 私が今日そこの事から感ずるのは、まぁ仏教的に言うならば、極楽人と言う事になるのだけれども、ま極の付く所間では行っていない、楽人だという感じですね。今朝からのあのご理解を頂いとりますと、可愛いと思う心が神心じゃとこう仰る、その神心を目指さして貰う、その神心というのは、可愛いと思う心、例えば肉親のものが子供が可愛い、孫が可愛い、それこそ目の中に入れても痛くない程しの可愛い思いがするのです。けれどもその可愛いというのは、神心ではない。
 そりゃむしろ煩情に近い、可愛いであって、いうならば、そういう肉親のものが可愛いとか、その孫が可愛いとかと言った様な、その可愛さが自分の周辺、又は世の中社会のことの上にまで、その可愛いと思う心が、育ってくる。ほんとに今の社会のいろんな有様を見ると、もう難儀が満ち溢れておる。そういう満ち溢れておる難儀を、まぁ何とかして、清まった社会に、又は何とか救い助ける手立てはないもんだろうかと、日頃心を遣わして頂くほどしの心を神心という。
 いうならば、私どもが肉親に、可愛いという情が起る、そういう心が、赤の他人の上にでも使えれるようになるという、それが神心だと。金光様のご信心はどこまでも生神、教祖の神様が、此の方のことを生神、生神というけれども、皆もそのようなおかげが受けられると、教えておられます。ですから、私共が生き神を目指すということは、仏教的にいうなら、極楽人を目指すということではなかろうかと思います。
 いやひょっとすると、極楽人というよりも、合楽人と言った方がいいかもしれません。極楽というのはただ、自分がなら幸せだというだけですけれども、合楽というのは、神様と氏子とが、祈り合い頼み合い、拝み合い楽しみ合う、そういうのが合楽ですから、そういう働きを受けて、御霊様たちが、日頃精進させて頂いておる、まあいうならば、今日はその楽人ということを頂きましたから、楽人のことで頂いても全然稽古もない人が、琴を弾け、さあ笛を吹けというてもでける事では御座いません。
 やはりそれにはやっぱり、それなりの師匠について、そして稽古をさしてもろうて、まずは笛を持つのはこういう姿勢、琴を弾く時はこういう姿勢をもってと、まず姿勢からおかげを頂かしてもろうて、あらゆる曲が弾きこなせる、て自分の曲が弾きこなせるだけではない、それこそ太鼓とでも琴でもいうならば笙、篳篥、まぁ色々雅楽が御座いますけれども、そういうものともう調和の取れた、いわば音律が流れてくる程しの、おかげを頂くと言う事が、これは私共人間の幸せであり、又そういう幸せをある意味では、楽というのであり、そういう幸せをあの世までも、持って行くというのが信心。
 これはあの世まで持って行くというのは、言うならそういう信心の真から生まれてくる本心の玉を清めるといわれるが、この世ではもう愈々この世ではもう、愈々本心の玉を磨きに来ておるのであって、もうこれが私共がこの世に生を受けた一代の願目なんです。それを知らずして分からずして、一生をまあ、しだごだで過ごし暮らしていっておる人達の、もういうなら、教祖のお言葉を借りると、信心のなきひと、真の道を知らぬ人の哀れさと仰るが、もうこれはもうじつに哀れな話です。
 どんなに都合よういっておるようでも、それをそういう見方をすると、ほんとに一本橋を渡っておるような思いです。いやいかにもこの世では、いろんなものに恵まれて素晴らしいと言う様であっても、その素晴らしいものが、子に孫に伝わっていかなければ、ほんとのことではない。ですから信心を頂いて、愈々本心の玉を清め磨かしてもらい、あの世では、まあこの世でこの頃から、私がお知らせ頂きますのに、日を書いて光と書く、これはあきらとも読みますね。
 この字を頂きましたから、これは日というのは、天地神様と言う事であろう、光というのは、銘々が信心をさしてもろうて、そこから心に光を頂く、その心の光と、天地の光とが一つになった時に、晃になるんだと。人間がどんなに物に恵まれておっても、それに天地の恩恵というものが、徳により沿わなければ人間のほんとの幸せというものはあり得ないんだと。だからそういうなら、おかげを頂かなきゃならんというご理解を頂いてんですけれども、それをあの、ここの修行生の方が、字引を引いてみたんです、そしたら字引には、なんと日と光の音律とあった。
 私はもうこれに極まると思うんです。日と光の音律リズムなんです。天地と私共のこころの調子が取れて、そこからもう妙なるまでの、天然のリズムというものがね、そのリズムに乗っての生活を信心生活。そのリズムに乗っての、御霊の生活これを安心の御霊、喜びの御霊というのではないだろうか、その喜びの御霊、安心の御霊を目指して、今日の御霊たちは一生懸命精進して、まあ、人で言うならば、まあ銘々の調子の合わせられるくらいな所まで行っておると言った様な感じ。
 いよいよ限りなく、今日の朝の御理解から頂くと、可愛いと思う心が神心じゃと仰せられる、神心を目指して、いうなら精進しておる、これは私どもも御霊も同じこと。その神を目指すとか、神心を目指すということは、もう自分の中に、銘々持っておる、肉親愛と申しますか、その愛というその心を、赤の他人の誰彼の上にも、使えるような修行が、信心修行というても良いわけです。
 ほんとに、例えば道の御用にでも立たせてもろうて、人が助かることさえ出来ればという一念に燃えてくると、もう自分の身どうなってもという、その激しいまでの、いうならば、神愛にも似た心が生まれてまいります。もう自分の身どうなっても、難儀を求めてお願いに来る、もう自分の身を犠牲にしてでも、その難儀な人を助けたい、そういう心が、不思議に育ってくるという所に、信心があると思うです。
 とても自分の心にそんな心があると思えなかったけども、あるんです。あるけれども、その心の置き場、というか、置き方が変わってくる。しかもそれが、いわば神も助かり、氏子も立ち行く、という合楽の世界。神様と氏子とが、こう喜び合い、頼み合うために祈り合う願う頼み合う、そして拝みあい、喜び合うと言った様な、おかげになって来る事が究極、私共の信心する者の目指しであると同時に、御霊も心を開いた御霊は、そういう精進に、本気で精進することになる。
 そういうひたむきな精進が、あっておる御霊と今日は見ました。まぁ今後遺族の者の信心と、本人達の御霊たちの精進とで、愈々いわゆる神心を目指しての御霊としての、おかげを頂くために、又私共は愈々、本心の玉を清める事のの精進に、ほんとにもう何を置いても、この事の精進に惜しみをくれてはならない、もうこの事に専念、私は最近みんなにいっているんですけども、もう信心に掛り切る事だよと言っている。
 なら信心に掛り切るとじゃ商売もでけんですか、百姓はでけんですか、ということじゃなくて、もう自分の心の中に、かけどうしにかける、いま合楽で心行ということが言われるが、いわゆる心を神様に向けて、いつも心に心行し続けることなんだと言うふうに申しております。そこからいわば、今まで自分にもこんな心があっただろうかと、自分で自分の心が拝みたいような心が、生まれてくる。
 その心が、私は極楽ではなかろうかと思うです。今日の御霊、まぁ仏教的に分かりやすくい言うなら、極楽を目指して、又その向こうにある、合楽を目指して、言うなら、楽人としての、御霊のまあ、姿勢を見たような感じが致しました。おかげを頂きまして有り難うございました。